今期の役員と委員会構成

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第3回

戦後初めてロサンゼルスの空高く「目の丸」の旗が飜る

L浜中一秦

  東京桜門ライオンズクラブニ十五周年の意義ある年に当り、
今回、戦後の日本大学体育会の状況及び、当時、私がある監
督から伺い感銘した貴重な話をさせていただき、また今後、
皆様方が社員の研修等々でご参考にでもなれば幸いと思い、
認めることにいたしました。
  それは古い話ですが、私は昭和十八年学生半ばにして学徒
出陣で出征し、昭和二十年終戦で復員、そして復学し、昭和
二十四年法文学部を卒業し、縁があって日本大学本部体育会
に勤務することになりました。
  当時、体育会の会長は呉文炳総長で、副会長は「日大二高」
の山野井亀五郎理事長で、事務局には陸上競技部先輩の平野
平三教授、歯学部出身の駅伝の覇者・森本一徳先生、私を体
育会に推薦してくれた相撲部出身の工藤正城先輩等々が居り、
各部の監督には、のちに大学の理事長になられたボクシング
部の柴田勝治監督、また当時、東洋のステンゲルといわれた
野球部の香椎監督、また戦後、萩村伊智朗・田中利明選手ら
世界チヤンピオンを育てた卓球部の矢尾板監督、また戦前、
学生相撲界で剛力無双といわれた相撲部の庄川監督、また、
第一回アジア大会でハンマー投げで金メダルを取り、現在ハ
ンマー投げで活躍をしている室伏広治選手のお父さんの重信
選手を育てた陸上競技部の釜本監督、また、古橋・橋爪・浜
口選手等、水泳部の黄金時代を築いた村上監督、更に、佐藤
恒夫・佐藤忠・菅原和彦等のオリンピック選手を育てたスケ
ート部の向後監督等、錚々たる監督が活躍しておりました。
  その中で特に私に目をかけてくれた監督は村上監督でした。
村上監督は銀座の老舗の「立田野」のご長女のご主人で、私
が体育会の仕事で遅くなり、帰ろうかなあと思っている時ヒ
ョッこり現れ「浜ちゃん、一寸、一杯やろうか」と誘われ、
私も逐々誘われるままに水道橋や神保町の居酒屋へ連れて行
かれたものでした。村上監督は全く酒は駄目で、ビールー杯
呑むともう真っ赤になり、家庭の話や監督の苦労話等を語り、
私は何時も「聞き投」で、今考えてみると、彼のストレス解
消に役立ったのかなあと思っております。
  今回はその村上監督から伺った話の中から貴重な、感銘し
た話を紹介したいと思います。
  それは遠い昔の昭和二十三・四年頃。当時日本は戦争に敗
れ、敗戦のドン底にあって、食糧事情もまだまだ悪く、住む
家もなく、当時の戦後情勢の「暗澹」たるなかで、唯一国民
に大きな「夢と希望と感動」そして「自信」を与えてくれた
のはスポーツ界であり、特に本学水泳部の古橋・橋爪・浜口
選手の活躍であったと思います。
  その頃、国内にあって古橋・橋爪選手はお互い負けられな
いライバル同志にあって、日本記録を次々と更新し、更に世
界記録を樹立していったのでした。
因みに当時の古橋選手の記録を見ると
   四百m自由形       四分三十四秒○六
   千五百m自由形     十八分五十八秒○八
 現在の世界記録は
   四百m自由形       三分四十秒○八
   八百m自由形      七分三十九秒十六
   千五百m自由形     十四分三十四秒五十六
と、半世紀経った現在、大幅に短縮されましたが、当時と
しては画期的なものでした。然し、このような「記録更新」
の陰には、隠れた彼等の「努力と根性」があったからに他な
りません。
  当時村上監督が、時には目を輝かし、時には涙を流し、し
みじみと語った貴重な話とは、当時世界記録を樹立した古
橋・橋爪選手らが、愈々昭和二十四年ロサンゼルスの全米水
上選手権大会に、戦後初めて参加する二・三ケ月前のことで
した。
  どこの運動部の合宿所でも、一日のスケジュールが、監督
により起床から消燈まで綿密に計画をされ、それが毎日「厳
守・実行」されております。
  それは七月のある暑い夜、村上監督が暑さのあまり寝付か
れずにいる午前一時頃、何か水しぶきの音が耳に入り、夜十
時には消燈というのにおかしいなあ、夜中の練習は厳重に禁
止しているのに、まさか部員が泳いでいるわけでもないだろ
うし、近所の者か、或いは酔っ払いの者かと、色々思案をし
ながら「兎に角」まず、正体を見届けてみようと起き出し合
宿所の陰からジッとプールを見つめていると、月の明かりで
目が慣れるに従い、ひとりの男が泳いでいるのがわかりまし
た。その泳ぎから見て素人の泳ぎじゃない。
  ところがその男が二・三十分泳ぎ終わって深呼吸をして「ス
タスタ」と合宿所へと消えて行ったのでした。
  あれ?あの独特な泳ぎから、あれは古橋じゃないか?と思
い、こんな時間にとんでもない。早速、明朝厳重に注意せね
ばと思いながら寝室へ向かおうとしたとき、またまたひとり
の男が物陰から現れ、軽いウオーミングアップをし、二・三
十分泳いだかと思うと、深呼吸をし、また合宿所へと消えて
行ったのでした。
  なんだ?あのスマートな泳ぎから、あれは橋爪じやない
か?あれだけ夜十時には消燈するよう申し付けてあるのに、
とんでもないやつらだと思いながらも、内心、あいつらよく
やりおるわい、やはりお互いに負けられない両選手のライバ
ル闘争に些か感心しながら村上監督は寝室へと戻ったのでし
た。
  翌朝、監督は寝不足ながら何時ものように起き、点呼を取
ったが、全部員が揃っている。村上監督は夕べのことを思い
浮かべながらも、何事もなかったように、また、一目の日課
が始まる。
  ところで翌晩、もしかしたらまたやっているのかなあ、と
「好奇」と「疑心暗鬼」の気持ちでこっそり起き出し、ジッ
と見つめていると昨夜と同じように泳いでいる。
  村上監督は内心、日本一を目指す選手はやはり違うわい、
たいしたものだ、と感心しながら、両選手に密かにエールを
送り今後の活躍を祈ったとのことでした。
  そして昭和二十四年八月、日本スポーツ界が戦後初めて全
米水上選手権大会に参加し、愈々大会が開幕することになり
ました。
  当日、日本国民がラジオにかじりついて、その成果は如何
にと聞き入る中で、古橋選手が四百m自由形で四分三十三秒
○三の世界新記録、また八百mでは九分三十五秒○五の世界
新記録、更に千五百mでも十八分十九秒の世界新記録を樹立。
また、橋爪選手も世界新で第二位。更に浜口選手も二百mの
自由形で世界第二位と、戦後初めてロサンゼルスの空高く「日
の丸」の旗が飜ったのです。
「所謂」両選手の日頃の「ひたむき」な「真摯な努力」と
「根性」が彼等を「世界一に成らしめたのでした。
「何事もやれば出来る」やってやれないことはないと思う。
「心底」本気で努力すれば必ず道が開けるものと私も思って
おります。
  ところでこれには「後日談」があり、アメリカのキツパス
監督が来日し、「世界新」を樹立した日大水泳部は、さぞ完備
された素晴しい合宿所であるだろうと大いに期待し訪れたと
ころ、あまりのお粗末さに驚き呆れて帰国したという「エピ
ソード」がありました。
  当時。日大水泳部合宿所は大変古く、雨は洩るやプールも
汚いものでした。
  昔から「家貧しくして孝子あらわる」と申しますが、どん
な完備された立派な殿堂でも、また、どんな古びた「荒ら屋」
でも、それを使用する人達の努力で「輝く殿堂」にもなり、
また「無用の長物」にもなり得ます。
  どうか昔の「金言」、「成せば成る、成さねば成らぬ、何事
も云々」のとおり、己が苦しい時は相手も苦しい。相手が苦
しいときは勿論己も苦しい。あとは歯を食いしばって「ナニ
クソ」「ナニクソ」で頑張りぬく「根性」ことこそ「一番」大
事なことだと思います。
  どうかこの厳しい世情の中で、「初心忘れるべからず」の聾
えとおり、更に気持ちを引き締め、精進され、皆様方のご成
功を折って止みません。
『精神一到何事か成らざらん』です

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