今期の役員と委員会構成

メンバーからの一言

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チャーターナイト25周年記念を記念して編纂した「桜獅子」より抜粋して掲載してゆきます。

第12回


母校を知ろう
L瀧澤 正彦
 我が母校・日本大学は二〇〇三年、格付投資情報センター(R&I)によってAA(ダブルA)の評価を得た。これは民間企業のソニー・シャープ・第一製薬・山之内製薬・本田技研工業・NTTドコモ・JR東日本・JR西日本等々と同一評価を受けた事になる。

 ところで私立大学にとっては、十八歳人口(大学進学年齢)及び進学率が大変重要な意味をもつ。学生募集人員に対して志願者数が三倍以下になったら経営が難しくなると言われている。

 そんな中、十八歳人口の推移を見ると一九九一年の約二百五万人をピークに毎年減少し続け二〇〇三年には約百四十九万人にまで減少し、非常に厳しい環境の中にある。この少子化の影響を受けて、大学は冬の時代に入って久しい。

 私立大学連盟に加盟している大学をみると、二〇〇三年度では既に六割近い大学が消費収支超過となって苦しんでいる。いよいよ本年四月からは国立大学も独立行政法人として生まれ変わり、大学間の競争も更に激しさを増してくる。一方で大学の二極化が進行しており各大学とも入試改革をはじめ、様々な施策を打ち出し、なかには有名教授の引き抜きといったことまで行なわれているのが現状である。学生を選ぶ側から学生に選ばれる大学を目指して努力を重ねている。そうした環境の中にあってAAの評価を得たという事は、学生にとっても校友にとっても大変喜ばしい限りであり、教職員も安心して研究に教育に携ることが出来るという実に好環境の中にあると言える。

 さて、新制大学として新たにスタートした一九四九年(昭和二十四年)には、全国の大学は百七十八校、在学者十二万七千人であった。それが、一九五五年(昭和三十年)には、大学二百四十五校、短期大学二百八十校、在学者も七十一万人で、当時の進学率は一〇・三%であったが、敗戦のショックからの立ち直りを見せ、あらゆる面で上昇気流に乗り、神武景気と騒がれた一九五〇年代後半から進学率も上り、それに呼応する様に大学の新設が続いた。その結果、現在では大学・短期大学を合わせると、なんと千二百二十七校で在学者も三百七万九千人となり、又、社会環境の変化に伴い進学率も四八・六%にまで上昇している。

 しかし少子化は続き、昨年・一昨年をみても新生児は百十三万人程度で推移しており大学を取り巻く環境は、今後、更に厳しくなるものと予想されるが、それとは違った意味で創立当初から先人が苦労し、それを克服してきた歴史を忘れてはならない。

 日本の近代化を急ぐ明治政府は人材育成のため欧米の教育制度を範にして、わが国最初の大学として東京大学を設置し、一八八五年(明治十九年)には帝国大学令を公布し、東京大学を帝国大学とした。その帝国大学の中の法科大学(法学部)卒業者は高等文官試験が免除され、卒業者には官僚への道が開かれていた。

 一方、私学の多くは専門学校としてスタートした訳であるが、一九一八年(大正七年)の大学令によって、私学もようやく大学として認可されることになり、明治二十二年山田顕義伯爵らによって創立された母校日本法律学校(日本大学)も一九二〇年(大正九年)に正式な大学への昇格を果たした。

 しかし大学へ昇格する為には、決して安易なものではなく、基本財産の供託が義務付けられ、その金額も当時の金で一校五十万円で、更に一学部増す毎に十万円という莫大な供託金を必要とし、日本大学は供託金の工面がつかず廃校か存続かで大きくゆれた。そんな中、学生までもが一人毎月一円の連続募金を行い、念願の大学へと昇格した。なかには供託金が捻出できず大学昇格が昭和の時代にまでずれ込んだ大学もある。

 この様な時代を経て発展し、今では私学が日本の高等教育の七三%を担っている。
 日本大学は毎年「亭訂房日大」という出版物を発行しているが、その中に、卒業生校友数約九十万四千人・在学生数八万三千百七十二人・教職員数七千九百十六人・図書蔵書数五百七十三万千六百八十二冊・博土号授与者数九千三百四十一人.海外学術交流提携先十九ケ国一地域八十七大学・企業等の社長数二万九千二百七十九人等々を掲載してあるので、是非とも御覧頂きたい。